八幡山( 近江八幡

はてさて、 我が里 のどこからお話ししていいのか?
あまりタヌPONの私生活をお話ししても仕方がないので、人様の世間話によく出てくるような 取り留めもない、別段変わり映えのしない事柄を書き綴っていこう。
中仙道鏡宿武佐宿 から琵琶湖の方角を眺めると、鶴が翼を拡げているかのような山 すなわち八幡山別名 鶴翼山 がなにを隠そうタヌPONのねぐらである。
これ以上の詳細はご勘弁いただきたい。何しろこの話人様に聞き知られる可能性もある故。
我が族の歴史は人様が住む前だから相当古い、人様と関わりが出来始めたのはやはり 山裾に今の日牟礼八幡宮が遷宮された時ぐらいかなー・・・。
八幡山の山裾に 大きな岩 があって、人は大きな物に恐れを抱くのかその前に社を建てて お祀りを始めた。
八幡宮と言うからには海の神様か何かだが、もともとこのあたりはお米がよく採れる 所で、いまは近江米と呼ぶようであるが、八幡宮の祭礼でも五穀豊穣を祈る新暦4月14・15日の 八幡祭り は、少しは有名であろう。
歴史で言う安土・桃山時代に、都は本能寺で織田信長が明智光秀に裏切られたあたりから、 お隣 安土の里 は騒然とし、立派なお城は焼失してしまった。
今は石垣が当時を偲ばせて いる。もっとも最近は観光ブームとかで、安土にも 資料館(滋賀県立安土城考古博物館) が整備され山から出てきた 瓦の欠片なんかも置いてあり、安土の山も石垣を修復し始めている。
そのうちお城まで 建ててしまうのではないだろうか。
とにかく残された安土の里人を次代の豊臣秀吉の息子 (本当の息子じゃない) 豊臣秀次 が丸ごと八幡町に移転して出来た町が、今の近江八幡市 おらが里である。

(もちろん、集落はそれ以前からあって、日牟礼八幡宮の祭礼である 八幡祭(たいまつ祭)は、今の旧市街を取り巻く町が奉納をしているから、 左義長以前の祭だろうし、だいたい左義長(とんど焼)祭が3月に行われるのも おかしな話だ。八幡の住人が正月をこの時期までしていたなんて聞いたこともない。 旧暦の1月15日でも新暦の2月中頃であることを考えたら、 多分新しく移り住んだ安土の里の人たちは、先住の人たちか、お宮様の 都合で一月遅れの旧暦の2月にしなければならなかったんだろう。 なにせ、左義長祭は婆娑羅な織田信長が安土で始めたお祭りだそうだから。)

確かに安土町と近江八幡市には同じ町名が多くみられる。 孫平治(町) 新左右衛門(町) なんかは案外安土に居た人かもしれない。
面白いことに近江八幡市の 正神町 の由来は、安土にある 活津彦根神社(庄神) が移転したとか、昔の色町 池田町は、 安土にあった池田(きっと西の湖周辺の湿田地帯だったのだろう)にあった色町が移転した と言うことが、上記の活津彦根神社に書かれている。蛇足ながら、彦根市までもその名の 由来がこの神社に在るらしいのには驚いた。
戦国時代のこととて、八幡山城主豊臣秀次殿様もわずかな年月でお亡くなりになり、 城下も次の大坂へなんてことには成らなかった。我が族が住んでおるくらいの環境の いいところ人様が居着かないわけがない。
この辺りからが里人(世に言う近江商人)の台頭してくる時代となるのである。
安土と同じく市座の制度は楽市楽座となり、排他的な商売制度は抑制されていたのだろう。
今なら近江の土産は 「丁稚羊羹」 「赤こんにゃく」 等と手軽にお持ち帰りの出来る物、 せいぜい 近江牛の味噌漬け 程度だが、当時は八幡の商人、上手く湖上運送を利用した。

今でも湖上の街道「 八幡堀川 」添いには瓦製造所(跡?)が多いのはその証左である。
遠くは北海道から海産物・湖北の木材・薪・炭・地場産業八幡瓦・蚊帳・イ草等々 を舟にて、京・大坂に(逆に北海道・江戸に)商いして蓄財に励んだのであろう。
確かに八幡堀は八幡山(秀次城)を取り巻いているが、近くに見える 彦根城のお堀 のように 防御用の堀とは言い難く、木場の浜の感じがしないでもない。
言い換えれば庶民的なお堀 といったところ、この感じが今人々を引きつけているのかも知れない。
車社会の今日、堀は寂れる一方だ。
二八そばも、辻占もついこの方見たことがない。
まてまて、先だって丁髷姿のお侍、丁稚、番頭、女将さん。いつの間に江戸 時代 に戻った のかと思ったら、東映だか大映だかの撮影で、こっちもうっかり木の葉で庄屋に化けて 通り過ぎるところだった。あぶないあぶない
この時代の遺産といえば、天下の奇祭 左義長祭 だろう。
新暦3月14/15日前後の 土日に行われ、山車は惜しげもなく後日の夜に燃やしてしまう。 八幡祭りと同じく火祭りである。
我がタヌPON一家あまり人前には出ないのが定めだが、この日だけは腕試しの為に巷に 繰り出すのである。
人様も妙な化粧を施して、 チョウヤレ チョウヤレ と浮かれ出すのである。 この日を境に雪も降らなくなり、春の訪れと相成るのである。
あまり八幡山の麓のことばかりだと、金田の庄のしげおやじに文句を言われるから少し その辺りの話もしよう。
丘蒸気がこの里に来る事になったときは、正直言って文明もとうとう我が里まで 押し寄せてきたかと悲嘆したものだ。
しかし、当時の国鉄「 近江八幡駅 」は八幡山からずいぶん外れたところにぽつんと出来てしまった。
なんでも里人にすれば、タヌPONと同じで煙害・騒音を遠ざけようとしたらしい。 このことが今の近江八幡市形態を決定付けたのかも知れない。
駅前周辺は近代化され、旧市街は 取り残されたようになった。
近代化といっても京都・大坂の周辺都市、 ご多分に漏れず工場が都心から疎開してくるのである。
やがて住民パワー到来、再度工場は工業団地 に追いやられ、跡地や空き地はショッピング・ホテル・ビル・マンションが、都心のミニチュア版ばり で建てられ人々も賑やかな所へと足を向けることと相成ったわけである。
今はわざわざ都まで上らなくとも、欲しい物は近くで手にはいるようになったから便利になったと 喜んでいるこのごろである。
しげおやじには悪いが話を今一度旧市街に戻して、取り残された 町並み時間の流れ が緩やかになり 今は懐かしい町並み( 新町 他)がたくさん残る結果となった。
当世流行の「安・キン・PON」失礼「安・近・短」 観光旅行の波に乗っているわけで、とにかく観光客の数が増えたのには驚きとしかいいようがない。
もちろんこの状態を捨てておく近江商人の末裔ではない。
ちゃっかりあの手この手で商売を始め、 とうとう「 あきんどの里 」とやらの里まで作ってしまった。
果たしてこのブームいつまで続くことやら しばらく物見と決め込もう。